EPIROGUE

この国——ケイナンで一番の時計塔から眺めた下界は、雲海のように白く烟っていた。
 自然の奇跡などではない。人が作り上げた技術——蒸気機関が吐き出す残骸だ。
 夜闇を掻き消す白煙が、幾つもの煙突から立ち昇っている。
『オレ』はそれを一瞥して、時計盤の下に迫り出した縁を歩いていた。
 冷えきったレンガが、素足をじわりと凍えさせる。
 十歩ほど足を進めたところだろうか。『オレ』は、宙に足をぷらぷらと投げ出して座る男の背後で立ち止まり、唇を引き結んだ。

「……久々ですね」

 喉の奥から溢れるのは、不格好な固い声色だ。
 あまりにもぎこちない挨拶は、しかし振り向かせるには充分だったようで、男は影の中に潜ませた眼差しをこちらへと向けた。

「いや? そうでもないと思うけど」

 嘯く男の、口元の笑みが揺らぐところを『オレ』はついぞ見たことがない。
 煙に巻かれて何もかも見えなくなる前に、手早く本題に移ろうと、探りを入れることにした。

「……それにしても、どうしたんですか。こんなところにわざわざ呼び出して。オレから見ても、危ない、と思いますけど」

『オレ』の身体は落ち着かず、時折、崖下に目を向けている。
 恐れているのは、落ちればひとたまりもないこの高さのこと……ではない。今この時も、時計塔を見上げているかもしれない、人間たちの目だ。
 こちらの、気が気ではない心持ちを知ってか知らずか。彼は中空に指先を伸ばし、淡々と呟いた。

「今夜は視界が悪いからね。これなら、鳥だとしか思われないよ」
「らしくないですねえ」

 何事もリスクを回避する人だのに珍しいことを言う。……いや、それだけ緊急の要件なのだろう。『オレ』はそう受け取ることにした。
 彼は、こちらの指摘など意にも介していない様子で、アイスブルーのラインで彩った目蓋を伏せる。

「しばらく、困ったことになりそうだから、その前にね」

 淡い黒の瞳に宿るのは、地表で暮らす人民を一人残らず労わるかのような眼差しだ。
 だがその実、選り好みをする彼がその手のひらで掬う者はいるのだろうか。いったい、この広大な国の中で何人が彼の救済を受けられるのだろうか。
 しかし——それはこちらも似たようなものだ。
『オレ』は男のしおらしい横顔を見下ろす。彼に悟られぬように、時計盤の明かりを遮る己の影に潜みながら、笑みを頬の裏に含んだ。

「……具体的な方針はありますかね」

 教示を願うと、彼は、うん、と唸って迷いを覗かせた。

「先に伝えすぎても、君の『振る舞い』に影響が出そうだから、詳しくは言えないんだけど……。そうそう、『できるだけ一人でいるのは避けるように』。これだけは気をつけてくれると、助かるかな」
「……了解です。結局、いつもと変わりませんね」

 苦笑で濁った『オレ』の息を聞き留めたのか。彼はこちらの表情を丸い瞳孔で記録するかように、じっと見上げてきた。

「実のところ、君の顔を見るのが一番の目的だからね」
「またまた……。むしろ、裏切らないように見に来たって言われた方が、まだ信用できますよ」
「じゃあ……そういうことにしておこうか」

 思わず、返しに詰まる。やはり上手だ、と苦味に舌を引っ込めて出来たような沈黙で降参を告げた。
 彼の口ぶりにわざとらしさを感じないでもないが、こちらが呑み込むしかないだろう。
 言いつけを何度も咀嚼しながら、『オレ』は諦めて頷いた。

「分かりました。これからは、より『鈍感に』気をつけます」
「くれぐれも、ボロを出さないで。もう、頼れるのは君しかいないんだから。……期待、させてもらうからね?」
「はい。大天使チル」

『オレ』が粛々と頭を垂れて告げると、彼は立ち上がる。少し背の低い彼の背中から、まもなく、身を覆うほどの四枚羽が広がった。
 純白であるはずの翼は、時計盤から放たれる人工光に晒された所為で、薄く黄味がかっていた。
      ◇

ケイナン東部 エリム教会 礼拝堂

「コメさーん、大丈夫?」

 呼びかけるムラサキの声。カツカツと近づく靴の音。
 二つが混じり合って、アーチ状の天井に反響する。
 コメはそれを何処か遠くに思いながら、箒を支えにして、器用にうつらうつらと船を漕いでいた。

「うぅん……眠いだけ……」
「いや、ほとんど寝とるやろ」

 ムラサキは、信者席の通路のど真ん中で堂々と寝こけているコメを目の前にして、両腕を組んだ。

「ほんと、コメさんさぁ」

 心底仕方なさそうに嘆息しながら、ウェーブのかかった髪を耳にかける。そうして意を決した彼は、静かにコメの鼻先に両手を近づけ——ぱんっ、と一息に手のひらを打ち鳴らした。

「ウオァッ!」

 瞬間、びくんと肩を跳ねさせたコメは、箒を取り落としそうになりながらも、すんでのところで姿勢を立て直す。
 彼の滑稽な慌てっぷりをムラサキは間近に捉えつつ、まだまだこんなものではないと言わんばかりに、顔をさらに寄せて追及を始めた。

「ちょっとコメさ〜ん? わざわざゴトーくんも掃除に付き合ってくれてるのに、助祭の君が寝るなんてどういう了見かな〜?」

 放たれる圧にのけぞるコメを揶揄しながら、ムラサキは祭壇に近い最前席——生成りのシャツの裾を捲ってベンチの水拭きに勤しむゴトーを指差した。
 視線に気づいたゴトーは顔を上げて、瞬きを一度。そして落ち着いた響きを二人の元へと届かせるようにと、声を上げる。

「あー、その点についてはお構いなくー。今日仕事だと思って工場に出てきたら休みだったんで、むしろやることができてありがたいっすよー」

 青年の声が耳に届いた途端。コメは危ういバランスで背を逸らせながらも、喜色満面に表情を一変させた。

「さっすが、ゴトーくん……!」
「ほらほらコメさんは論点のすり替えしてないで。昼までに掃除終わらせるんじゃなかったっけ?」

 とはいえ、いくら言っても、コメを反省させるのは至難の技だろう。
 そう分かっているムラサキは、コメを見咎めつつも、カソックの裾を足元で靡かせながら踵を返した。
 彼が向かったのは、祭壇に置かれたオルガンだ。鍵盤の前に立ち、横に置いていた埃除けの布をそっと被せ始める。
 コメはてきぱきと動くムラサキを目で追いながら、つられたように祭壇へと身を寄せた。

「ねえ、ムラサキさん。一つだけ訊いてもいいっすかね?」

 すすす、と視界の端で近づいてくる感覚。
 ムラサキはある予感に駆られながら、何かを言いたそうにしているコメの顔へと目を向けた。

「……なぁに、コメさん」
「あのー……ですね」
「だから、なぁに」
「その……今日の昼ご飯、なにかなーと思って……」

 バツの悪そうな声こそ控えめながらも、隠し切れていない期待がアンバーの瞳に輝いている。
 いつもいつまでも、少年のように。
 懲りないコメを、ムラサキは固まったまま眺め——やがて耐え切れずに吹き出した。

「ふは……っ! コメさん、やっぱりさあ、そういうところだよねえ……!」

 教会の外部の人もいるからと真面目な声色を作っていたが、やるだけ無駄だったかもしれない。
 ムラサキは独り相撲の徒労に笑い転げながら、コメにかける言葉を継ぎ足した。

「昔っから変わんないよね! 司祭になるとか、夢のまた夢っしょ?」
「いや、でも……オレはさ、オレは上に行かなくてもいいよ。適度に休めて、ムラサキさんのご飯が食べれる……今の暮らしが、充分幸せだからさあ」
「あ〜! やっぱコメさん最高だわ〜!」

 ムラサキから肘で小突かれながら、コメは、へへ、と照れを誤魔化すように笑う。
 先程までとは一転、上機嫌になったムラサキは息を弾ませて、今日のメニューのお披露目会を開催し始めた。

「お昼はフレンチトーストになるね。もちろん、ゴトーくんの分も用意しとくから。そうと決まれば……いや、むしろ、そうだな……今から仕込み追加してこよっかなあ! どう思う⁉︎」
「よっ、流石ムラサキさん! 仕事が早い!」
「俺の分もくれるんすか。やった〜」

 便乗したゴトーが右腕を上に掲げて喜んでいる。
 それもさらにムラサキの高揚に一役買ったようだ。

「おうおう、待ってろよ二人とも! ムラサキさんにかかればこんなものよってところ、見せてやんよ!」

 芝居がかった口調が、礼拝堂の隅々まで木霊する。
 これからさらに品数が増えそうな勢いで、ムラサキは祭壇近くの扉を開け放ち、教会の奥へと勇しく進んでいった。
 そうして残されたのは——二人の青年と、伽藍とした祈りの場である。
 ……ちょっと、はしゃぎすぎただろうか。
 聖堂の静謐さを思い出し、今更ながら罪悪感をほんの少し感じて、コメは指先で前髪を弄った。
 そんな中、ゴトーは口を開く。

「仲良いんすね、ムラサキさんと」
「あ。あー……神学校からの付き合いだからね。十年は超えるかなあ。正確には、あともう一人加えて、三人組でつるんでたんだけど……」

 コメは頭から記憶を引っ張り出しながら、ムラサキがいる間は頑張って堪えていた欠伸を吐き出していた。
 しょぼしょぼしたコメの目をはたから見つつ、ゴトーははっきりと指摘した。

「めちゃくちゃ眠そうじゃないですか」
「そうなんだよねえ。昨日、全然寝た気がしなくて。背中もバキバキだし

 あいたた、と溢しながら、コメは肩甲骨を大きく回す。

「なんかしらの夢をね、見てたんだけど。これが全然思い出せないんだよねえ。誰かがべらべら喋ってた感じだけ、耳に残っててさあ……」

 皆があくせく働いている真昼間に、ぼんやりと語りながら、箒をゆったりと動かしていると、ついつい笑いがこみ上げてくる。
 とんだ能天気野郎だな、と自覚しながら、コメは祭壇の遥か上、はっきりとした色彩が一際目を惹くステンドグラスを見上げた。
 神を囲う天使たちの画が、東から降り注ぐ午前の光を額いっぱいに取り込み、大理石の白床を表情豊かに彩っている。
 もし今この瞬間に礼拝堂に足を踏み入れた者がいるのなら、噂通り大変美しい、と無遠慮な声を上げるのだろうが。
 これは……ダメだな、とコメは独りごちた。
 近隣の工場の所為だろう。ステンドグラスの外側に煤が僅かに張り付き、光が翳っている。
 この分では、あとで梯子を持ってきて拭き掃除をするしかなさそうだ。
 工場からの寄進はありがたく戴いているが、この排出物だけはどうにかならないだろうか。まあ、ゴトーくんの職場なのでとやかく文句をつける気はないし、考えても仕方のないことか。
 コメが他愛のないことを考えながら箒でホコリを動かしていると——不意に信者席の隙間から声が上がった。

「そういえばなんですけど……ついでに相談してもいいですかね?」
「ん? どうしたの、ゴトー」

 ゴトーの頼みを聞いた瞬間、コメは声色を助祭——聖職者、街の住人の相談役としてのものに、器用に変える。
 その変化を聞き届けて、ゴトーは口を開いた

「さっきの話の続きになるかもしれませんが、俺、最近悪夢ばっかり見るんですよね。だからか、めちゃくちゃ睡眠時間が短くて」
「悪夢か……。例えば、どういうの?」
「ほとんど同じ夢なんですよね。はっきりとは見えないんですけど……コールタールに追われる夢で」

 聞いた途端、うわぁ、とコメは内心で同情した。
 ついたら一生取れない汚泥のようなものに迫られる悪夢なんて見た暁には、ロクに落ち着いてはいられないだろう。

「そうだね……近い光景を、現実で見た覚えがあったり?」
「あー、そうっすね。職場で見たからかも。……それにしたって、夢から覚めたと思ったら、またソイツが枕元にいてそれも夢だったパターンが多すぎるんですけどね」
「うわ……念入りだなあ……」

 素を交えながら、コメは相槌を打つ。
 すると、このあたりで話が佳境に入るのか、ゴトーは語り口をほんの少し変え始めた。

「ああ……でも。今日の夢はちょっと違ったんすよねえ」
「ほう」

 それなら、好転にしろその逆にしろ、糸口が見つかるかもしれない。
 興味を瞳に宿しながら、コメはゴトーの言葉を待った。

「……最初はだだっ広い真っ白な部屋にいて……よくよく思い出してみたらこの礼拝堂に似てますね……まぁ、そこで立っていたらですね。入口の扉からノックの音が聞こえるんですよ。案の定、勝手に開いて、隙間からヤツが出てくるんですけど……」

 ゴトーが淡々と述べていた、その時だった。

 ——こん、こん、こん。
 語りの合間を縫うように。やけに大きなノックの音が、礼拝堂の中まで響き渡った。
 話に夢中になっていた二人は、一気に現実へと引き戻される。互いの顔を見合わせた後、外へ続く扉に揃って目を向けた。
 聞き間違いであって欲しい。最初はそう期待したが。
 ——こん、こん、こん。
 なおも音は鳴り止まない。
 普通はそのまま入ってくるものだろうに、外にいる何者かは、頑なにドアを開けようとしない。
 自分では開けたくない理由があるのだろうか。もしかすると……ゴトーの夢に出てきた通りの、主に反する類いのものか。
 いやいやまさか。こんな昼時に、まさか。
 そう気を逸らしながらも、コメの引き攣った唇からは、ヒュ、と息が漏れる。
 期待に縋りながら、指の腹で自分の腰の辺りをまさぐってみるも、武器を持ち出していないことがはっきりと分かっただけだった。
 ああ、気を抜きすぎだ。丸腰だぞ。
 ……とはいえ、何も敵が現れたと決まった訳ではない。
 コメは前に進み出て、ゴトーを庇えるようにそれとなく動く。
 そうして、恐る恐る距離を詰めていた——その時だ。
 このまま一生開きそうにないと思われた扉が、ガチャリ、と目が醒めるような音を立てて動き始めた。
 風で勝手に開いていくかのように、じわじわと外の光景が映し出されていく。
 やがてあらわになる、四角の額で切り取られた世界、その先には。

「どうもどうも! ……もしや、もしかして、驚かせてしまいましたぁ? それはすみませんねえ! 私はノザリオ商会のセトシオと申します。以後ぉ、お見知り置きを!」

 にんまりと弧を描く口元。愉悦に浸り尽くしたかのように歪んだ目元。くすんだ薄茶の髪に被せたシルクハット。黒々としたステッキを、タン、と地面に刺した——
 見知らぬ紳士が、我が物顔で、悠然と立っていた。
      ◇

ケイナン西部 シナイ教会近郊 地下墓地

 硬い石を踏んでいるのか。
 脆い骨を砕いているのか。
 判別のつかぬまま、ユーセイは地面を蹴りつける。
 壁に埋め込まれた無数の頭蓋骨が、ぽっかりと空いた眼孔でこちらを見張っている。そんな錯覚に駆られる通路を、今回の標的である黒い魔性が逃げ去っていく。
 そう——これは狩りだ。
 シナイ教会の司祭であるユーセイは、上層部からの要請に基づき、街の直下に存在する墓地にて悪魔を追っていた。
 当然ながら、陽光は届かず。また、等間隔に置かれた壁面のランプが、ユーセイの持つサーベルの刃を煌めかせることはない。
 道を照らすはずの灯りは、先行する影が差し掛かるその度に、ふ、と怯えるように消え続けていた。
 想定よりも動きが速い。ユーセイは片目を細めて、不快感を露わにした。
 標的は、こちらへの妨害よりも己の逃走に重きを置いている。実に無駄のない判断だ。だが、ここで逃げられたならば、霊障被害が拡大するのは必至だろう。
 なおも、逃走者は速度を上げる。
 こうなっては、いよいよ追いつけるかどうか。
 ユーセイが前を睨みつけ、さらに速度を上げた時だった。
 じわりと肌を這った殺気を、経験から来る直観で感じ取る。
 首を僅かに左へと傾けると、瞬間——黒々と光る鋭い爪先がこめかみを掠めた。その軌道をさらに逸らそうと、咄嗟にサーベルで弾く。
 ユーセイは変貌を遂げた戦況に即座に対応しながら、闇の先に目を向けた。
 これからさらに先へ進めば、天井は低くなる一方だ。狭い空間では、刀身の長いサーベルが不利になるのは明白。
 ならばいっそ、と——。
 逡巡は一瞬。実行は即刻に。
 ユーセイは表情も瞳の向きすらも変えぬまま——不意に力が抜けたように、サーベルをその手から放り出した。
 カン、と無情な金属音が足元で響く。

「司祭!」

 背後から聞こえてきたのは、助祭たちの悲鳴。
 だが、大局を見れば彼らにもすぐに分かるだろう。むしろ歓声を上げるべき刻だ。これで——ようやく攻勢に移れるのだから。
 ユーセイは武器を捨て去ったことへの恐れなど無いかのように、勢いを殺さぬまま、標的の懐へと身を躍らせる。
 次の瞬間、彼の手は細い枝としか思えない首を躊躇いなく掴んでいた。ダン、とさらに踏み込み通路の壁に押しつけると、悪魔は宙に浮いた足を無様にばたつかせる。
 のたうつ身体で暴れる度に、壁に組み込まれた白骨は乾いた悲鳴を上げ続けていた。
 悪魔が、背後の骨を人民として人質に立てるかのように。
 だが——こいつは何も分かっていない。
 笑止千万、今己が護るべきは今を生きる人間たちだ。優先順位を履き違えることはありえない。
 だからこそ、その抵抗に意味はなく。

『十字架のしるし。きよき守護の残滓。罪を数え直すこと三度に渡り、悉く回心を欲せよ』

 ユーセイは隙を見せることなく、詠唱を叩き込む。

『主よ——憐みたまえ』

 最後の音を発したその刻。悪魔のおぞましい悲鳴は、耳を破裂せんばかりの異音と化す。
 しかし、鋼鉄製の信仰が、その手を緩めることはない。
 ユーセイは首を手折ることすら狙って力を込め、心臓から塵と化していくソレを淡々と見つめていた。
 焦りは獣自身をも殺す。
 これも一つの教訓だな、と己をてこずらせた悪魔の呆気ない結末を、その最期まで見届けた。
 今や——指を掠めるのは過去の遺物。淡い砂の細かな粒だけだ。
 汚れた手を見下ろすこともせず、いの一番に、地に転がったサーベルを回収して鞘に納める。
 そうして息を一つ。声色を整えてから、今まで駆け抜けてきた背後の道を捉えるように、振り向いた。

「三人とも、もう出てきていいよ」

 すると、闘いをこっそりと見守っていた教会の見習い達が、三人揃って小走りに駆け寄ってきた。
 その手に掲げたカンテラが、からからと気の抜けた音を鳴らす。
 ユーセイの前に進み出た三人。その輝く瞳たちは、司祭への憧れを溢れんばかりに宿していた。

「さっすが、ユーセイさん!」

 開口一番、まさに舎弟のように息を弾ませたのはナチョだ。ふわふわとした黒髪が、人懐っこい犬の耳のように跳ねていた。
 続いて、ミナミが端正な面差しを上気させながら捲し立てる。

「強力な悪魔も、司祭に指令が来た途端にこれですもんね! 他の教会は吸血鬼の件でまとめて動かされてますが、これは司祭だけに与えられた特別任務……流石です……!」
「……結局、俺たちには誘導が関の山なんですけどね、まだまだ」

 同期二人の言葉に隠れるように。ヤナカは最後に告げ、うーん、とバツの悪そうに唸っている。
 いつか己を継ぐ後進を慰めるように、ユーセイはヤナカの肩に手を置いた。

「これから一人前になっていけばいいからさ。……心配しなくてもなんとかなるって。な?」

 ヤナカの肩を汚していた塵を手のひらで払い、保護者としての笑みを作る。

「さ、疲れたろ。早く帰ってメシにしようぜ!」

 ユーセイの晴れ晴れとした鶴の一声に、三人は湧き立った。

「よっしゃ! せっかくここまで出てきましたし、帰る前にパン屋寄りましょうよ!」

 ナチョがすばやく欲望を差し込むと、ヤナカも自然とそれに乗る。

「だったらシチューも作りたいよねえ」
「お〜、いいじゃんいいじゃん! あと……そうだった、ワインも買い足したいよね!」

 ミナミも歓声を上げながら、さらに案を付け加え始めた。
 見習いたちは、闘いがあったことすら忘れたかように、呑気にはしゃいでいる。この四人ならどんなことがあっても大丈夫、と漠然とした安心感を抱いているのだろう。
 根拠の無い平穏。けれど、温かな時間だ。
 ユーセイは隠しきれない笑みを言葉尻に溢しながら、三人をたしなめる。

「その前に、消えた火をカンテラで灯してからな。敵が暗闇に潜んでるかもしれないってこと、忘れてないか?」
「はーい」

 さながらクモの子を散らすように。
 我先にと通路を駆け回る三人の後ろ姿を、ユーセイは目尻を緩めて眺めていた。
 彼らは——己が護るべき者であり、教えを受け継いでくれる担い手だ。そして司祭である己を無条件に信じる子らだ。
 このまま彼らと過ごせたならば、充実した日々が一生涯約束されたも同然だろう。
 だが——一つ、ユーセイには危惧しておかなければならないことがあった。
 純粋な彼らを己やこの組織に寄与させ続けていいものか、という前提からの問題だ。
 ユーセイはかつて人伝てに聞いた、彼らの神学校時代の話を思い返す。
 曰く、彼らが仲良く連んでいると、さながら奇跡のような出来事が度々起こるのだという。
 そうして卒業を迎えた時、神学校の上層部はこの三人を固めて一つの教会に配属させた。
 それは何故か? 答えは、ひどく簡単だ。
 この中の誰が奇跡を起こさせ、起こしているのか。単一で起こるのか、それとも連帯性はあるのか。それを最後まで見極められなかったからだ。
 或いは、とユーセイは本来ではあり得ない仮説を立てる。
 この中の誰かが天使で、誰かが天使の加護を受ける者——ブレストであるのかもしれない。
 もしも、万が一、彼らの中に天使が混じっていると知った時——己はどうするのだろうか。
 堕ちないように徹底的に管理するか。それともいっそバラバラに引き離すか。
 だが、それは今考えても詮無いこと。現実に基づかない無意味な空想だ。

「……ああ、そうだ。俺は、上の言うことを信じるだけだ。俺たちには、今まで教えを説いてきた責任がある」

 自分自身を強く叱咤するように。ユーセイの喉からは、宗教家としての硬質な声が響く。
 しかしそれでも迷いは捨てきれず、心の底で澱はわだかまり続けた。
 常に考えるのは、声すら思い出せない過去の記憶。そして、一つの過ちと代償であり——
 せめて——己の二の舞だけは、避けなければ。
 ユーセイは切に願いながら、胸の下にある聖痕——加護の名残を、中指で黒服の上からなぞっていた。
      ◇

ケイナン西部 シナイ郊外

️  大きな柳の下を潜り、幹に手を添えて、くるりと進路を南に変える。
 手に淡い茶の紙袋を両手に抱えて、裸足のまま。
 良く言えば、香りを辿って。悪く言えば、帰巣本能で。
 右へ、左へ、奥へ、先へ。
 余人には辿り着けない西の最果てに進めば、森を少しだけ切り拓いた陽だまりに辿り着く。
 そこが——自分たちの住処だ。
 もしも羽を広げて飛んだならば、こんなに歩かずとも、すぐに着いてしまえるだろう。あえてそうしないのは、居所を知られない為だった。
 さて、そろそろ歩くのも飽きてきたところで、ようやく土煉瓦で作った家が見えてくる。
 手ずから作ったので、最早様相としては土塊に近いのだが。まぁ結局のところ、壊れたら何度でも作ればいいのだ。
 誇らしい気持ちで、へんてこに伸び上がった家を見上げる。南の方角に誂えた二階の窓際に目を向けると、背の高い青年——バシュが空を眺めていた。
 彼は簡素な麻の服に身を包んでいる。その姿を、下からジッと見つめていると——不意に目が合った。
 こちらが声をかけるよりも先に気づかれてしまったようだ。
 長旅から急に帰ってきて驚かせようと思っていた当人——チルはほんの少し肩を竦めた。

「チルリン! おかえり!」

 そんなことは露知らず。バシュは大きな手を振りながら、愛称で無邪気に呼びかけてくれる。
 チルはすぐに絆され、まぁいっか、と帰りを待ってくれた家人に向けて微笑みを返した。

「ただいま、バシュ。降りなくていいからね」

 何故なら、こちらが昇れば済む話だ。
 二階までの僅かな高さを、チルは翼を広げて飛ぶ。
 そうすると、光を取り込んだバシュの瞳いっぱいにチルのシルエットが映る。本人についぞ言うつもりはないが、それがチルのお気に入りだった。

「はい、林檎」

 密かな喜びを口元だけに留め、土産の赤くてつるつるとした果実をバシュに手ずから渡す。

「ふふふ……ありがと」

 バシュは素直に口に持っていき、迷うことなく歯を立てた。
 さくり、という小気味の良い音。果汁が吹き出したそこには、ちらりと鋭い牙が覗いている。
 その特徴で分かる通り——彼は純粋なヒトではない。
 悪魔との、混じり物だ。
 もし群衆の中に放り込めば、迫害されるか悪しき方向で崇められるかのおおよそ二択だろう。
 そして彼を匿っている己は間違いなく、天使の中では異端といえる。とはいえ、彼を救えるのは現時点では己だけだ。
 チルは鍵をかけた揺り籠を思わせる甘く優しい声で、バシュに問いかけた。

「そうだ。俺がいなくてもご飯足りた?」
「大丈夫。外に出なくてもよかったよ」

 バシュは、一度も家から出なかったと素直に示して、こくんと頷いた。
 チルが家を明けることは多い。けれども、バシュはいつもそうやって天使の帰りをのんびり待っていた。
 必ずチルは帰ってくると、当たり前に信じているからだ。
 彼の変わることない純粋さを微笑ましく思いながらも、チルは大事なことをバシュに言い聞かせた。

「……でも、もしこれから。俺が帰ってくるまでに食べ物が尽きそうになったら、修道院に行ってね。行き方は教えたよね?」
「うん、覚えてるよ。メガネのシスターを探せばいいって」

 幾度目かの問い掛け。最初から刷り込まれた答え。
 バシュはそれを思い出しながら言って、首を縦に振った。
 チルが帰って来ない時——それはつまり、致命的な事態を意味するのだが。
 ……彼は何も知らなくていい、とチルは事実を伏せ続ける。
 何もかもが消えゆくとしても、せめて滅びは緩やかに。
 そう切に願う心を、しかし今はいらないと胸の奥に沈み込ませた。
 気を取り直したチルは明るい声色を作って、バシュに呼びかける。

「さぁて。バシュにはそれだけじゃなくて。お土産は他にも買ってきたんだよね」

 チルはぽっかりと空いた窓から身を滑り込ませ、家の床に足をつける。そうしてバシュに面と向かって、紙袋を手渡した。
 くしゃり、と軽く鳴る紙の音。しかし見た目より、ずっしりとした重さに、バシュは驚いた。

「わぁ……! いいの、こんなに?」
 無邪気な笑みを間近で見ながら、チルは、だって、と口元に人差し指を当てる。

「せっかく遠出したのに、手ぶらで帰るのも……ね」

 気付かれぬように言葉を濁した天使はからからと笑って、広い窓を薄い白布で内側から一息に遮った。
 さながら、空に開いた目から、彼の存在を隠そうとするかのように。
      ◇

ケイナン北部 ゴモラ山脈

 空を塗り潰す分厚い雲が、地上にその影を落とし、色彩を翳らせている。
 グレーの乾いた岩肌の上を、黒いフードを被った二人の男は進んでいた。その足取りは、何かに急かされているように慌ただしい。
 彼らが時折足をかけて登っていく険しい斜面には、不自然に球状に削られた箇所が幾つもある。
 かつて大きな何かに抉られたかのような、或いは掬われたような……そんな途方もない想像を掻き立てる様相だった。
 永い時を経て風化した岩の窪みには、ざらりとした細かい砂が溜まっている。
 相方の手前、抑えてはいたが——やはり足の裏につき続ける感触が気に食わない。
 メルは不満そうに、む、と唇を固くして問うた。

「ねえ、カビヨシさん。ほんとにこのまま歩くんです……?」

 おずおずとした声が、風に乗って辺りに響く。
 しかし、先行していたカビヨシは、メルに振り向かないまま、ぴしゃりと言い切った。

「飛ばないで。なおさら、奴らに見つかる」

 いつになく真剣な声色が、耳の奥を震わせる。
 メルは、カビヨシのの剣幕に気圧されて頷いた。
 依然、彼の視線は所在なさげに、見慣れない自然の中を彷徨っていたが。
 だが——それも無理はない。
 この逃避行すら急なことだったのだ。
 そう、時は僅かに遡り——今朝のことだ。起きたばかりのメルが紅茶のカップに口をつけていると、開けた窓から突然カラスが入ってきた。今までもよく見かけていた、クァの手足として働く鳥だ——それは羊皮紙の封筒をくちばしに咥えていた。いつもの便りだろう、とメルは呑気に家主であるカビヨシに手紙を渡す。しかし、中身を開き目を通した彼は、顔色をうっすらと青くし——一体何を見たのか——便箋をすぐに燃やしてこう宣言した。

『ここを出るよ、準備して』
 その瞬間からあれよあれよという間に、メルはカビヨシに急かされ、最低限の荷物だけを抱えて家を飛び出したのだ。
 そうして——今も現実感のないまま、ふた山を越えてしまったところだ。
 メルは落ち着かない素振りで両腕をぷらぷらとさせ、山の中腹から辺りの景色を眺めまわしている。
 しかし、カビヨシはお構いなしだ。なおも早く次へ進もうと、岩に足をかけている。
 いつもより歩幅の大きな彼を見上げ、メルは瞳を不安げに揺らめかせた。

「カビヨシさん、ここまで来といてなんだけど……何も、家を捨てていかなくても……」

 そう、今日の彼は、やることなすこと大袈裟なのだ。
 時折追われていないかと気にして背後に目を光らせ、視界の端で物音が鳴れば警戒する。
 何もそこまでしなくても、というのがメルの言だった。
 しかし、続く言葉は遮られる。

「……いや」

 岩を登り切り今までの道程を振り返ったカビヨシ。彼が、不意を突かれたようにそう口走ったからだ。
 致命的な予感が、メルの背筋を冷たく這う。
 目を見開いて後ろを振り返ると、ここからふた山ほど離れたところだろうか——
 遠くの斜面で燃え立つ黒煙が、柱のように天に伸びていた。

「え、あ……え?」

 理解、したくもない。理解したくもなかったが。
 あの位置は数刻前の自分たちの居場所——カビヨシの家に違いない。
 喉から悲鳴が出てくることはなく、ただただ現実を恐れる吐息だけが口から漏れる。
 メルが唇を戦慄かせている間にも、カビヨシは知らない世界の話を淡々と語り始めた。

「いよいよ、教会の奴らが本気になった。それだけだよ。……クァさんも、あそこの人間も、無事だといいんだけど」
「なんで、ここまで」

 メルが茫然と問うと、当然という顔をして青年は答える。

「吸血鬼は、今までもこれからも出来損ないだけど。結局は、悪魔を元に作られた新人類だから。人間と相容れないのは当然だよ。今まで、運良く放って置かれただけで」

 黒い外套が、昏い空を背にはためき、ぶわりと浮き上がる。その有り様は、奇しくも、その背に存在しない一対の翼を思わせた。
 ——何もかもを既に知っているような眼差しと、何も知らない無垢な瞳が、交錯する。
 先に目を逸らしたのは、カビヨシだった。
 彼は、たん、と軽やかに岩を降りる。メルの至近距離に着地すると、その腕を掴んで引っ張った。

「行こう、メルくん」

 山の斜面を這うような、そこに坐す何もかもを攫うような、下から吹き抜ける風に強く煽られる。
 飛びそうになるフードを押さえ、カビヨシは赤い瞳を頑なに隠す。口を挟ませる暇すら与えず、先へ先へと歩を進め始めた。
 メルは縺れそうな足を立て直して、なんとかカビヨシについていく。
 そうやって——わざと必死なふりをして、無知を気取ることにしたのだ。
 吸血鬼の彼が、元凶の仇である天使の自分を、何故連れて行ってくれるのか。
 それだけは——どうしても訊けなかったから。
      ◇

ケイナン首都 モリヤ大聖堂 最上階

 ケイナンで最も栄えているのは何処か?
 民たちにそう問うたならば、皆口を揃えて、国の南西に位置する聖都モリヤの名を発するだろう。
 モリヤは、ケイナンにおける政治、経済、文化、技術発展の中心地であり、多く人民が住まう世界最大の都市である。
 この街で数百年間シンボルとして在り続けているのが、都市の名を冠する、モリヤ大聖堂だ。
 大聖堂の鋭いてっぺんの奥から響く鐘の音は、栄えた街並みに時を知らせ続けてきた。
 ……ここ数年で建てられた時計塔に、高さを抜かれたばかりか、その役目すら奪われつつはあるが。
 さて、モリヤ大聖堂の最高層は鐘の間となっている。だが、そこに人が立つことは滅多に無い。
 実質的な最上階といえば、その直下を陣取るフロアである。
 そして、これはあまり知られていないことなのだが——最上階は、ある人物の座敷牢となっていた。
 大聖堂の外壁と全く同じ、象牙のような白を基調とした空間。ご機嫌取りを目的とした、豪奢な調度品が置かれた大部屋。
 外から鍵をかけられたその座敷牢は、しかし、バルコニーへの移動だけは自由だ。
 もちろん、ただのヒトにとっては、そんなもの、外への脱出経路になり得ないのだが。
 しかし——それを可能にするモノが、ここにはいた。
 絵画の額縁ような白い窓枠に、一人の天使——ギズモが止まり木のようにして座っていた。

「ねえ、何してるの?」

 ギズモは、正邪の無い笑みを浮かべて、部屋の中へと呼びかける。
 教会の深部によって囚われている張本人——シブは部屋の中心に座り込んだまま、顔には微笑みを浮かべていた。
 青年はこの部屋に在るべくして居るように、白いローブを着せられてそこにいる。彼の素足は白い床と一体化しており、石膏の彫像の土台そのものだ。
 その姿を見た誰もに『天使』を想起させる、偶像として完成された出で立ちだった。
 彼の視線はギズモの声が発せられた先から、足元の真白い床へと移っていく。

「下の人たちの話をちょっと聴いてて、ね」

 何も映さないシブの褪せた目は、しかして、下の階層で行われている会話を正確に浮かび上がらせた。

 ——最早、聖都もこれまでか。……まあ、保った方だと考えたいけどさ。
 ——とても……不味いですよね。人々の暮らしを維持する為には、今以上にいろいろ策を考えないと。
 ——表向きとしてはそうだろうね。だけど……産業の発展と共に、奇跡の観測は減少の一途を辿っている。教会の求心力は、これからさらに衰えるとしてさ。……教会の無い時代が、すぐそこまで来ているのかもね。
 ——教皇……そんな……。

教皇スノハラ。加えて、その部下として振る舞うヒッキーの会話だ。
 彼らの秘めたやり取りを、シブは口外もせず、時折目尻を緩めてただ聞き続けている。
 ギズモは、シブにしか見えない光景を想像しながら、よく回る口を動かした。

「シブくんはさ。何でもわかっちゃうんだよね……自分のこと以外は。シロクロちゃんとサクラくんの居場所も、ホントは分かってるよね?」

 確信を突いたギズモの言葉が喉にひたりと当てられても、シブは、ふふ、と零すだけだ。

「そうだね、そうなんだけど。でも……それよりも、僕にはやらなきゃいけないことがあるから」

 淡々と口を動かしたシブは、再び顔を上げて、独り言のように呟く。

「これでやっと、真っ白な世界を終わりにできる。……だよね?」

 何も映さない乳白色の瞳。その視線は、ギズモを通り抜け、その遥か先、窓の向こうの蒼穹を彷徨った。
 一縷の望みに縋るような眼差しは誰に向けたものか。それを知る者はついぞ居らず。
 淡々と、画一的に、時は刻一刻と進んでいく。
 天使であることを隠さず、公にする者。生き証人となる人柱は、ただ天上に存在するだけだ。
 退廃を望む意思。最後の奇跡が成就する——その時まで。
      ◇

ケイナン東部 エリム教会 礼拝堂

 頼もう、と言わんばかりに開け放たれた戸口。晴れていた筈の空は薄雲がかかり、視界の果てから煤の匂いを纏った風が押し寄せている。
 四角く切り取られた薄暗い景色の先で、見覚えのない紳士に手を振られ、コメは顔に困惑を浮かべていた。

「はぁ……」

 彼から名乗られた『セトシオ』という名前を脳内で反芻しつつも、状況はちっとも呑み込めていない。
 先ほどまで極限の緊張を味わっていたのだ。正直に言えば、きちんとした人型が現れた時点で、脱力してしまった。……いや、この振る舞いを見る限り、彼がかなり変わった人柄なのは間違いないのだろうが。
 そんな風にぴしりと固まっているコメ。そして奥で立ち尽くして凝視するゴトー。
 二人を差し置いて、セトシオは恭しく会釈した。
 彼はさらに言葉を重ねる。その口ぶりは少し、蛇にも似ていた。

「そういえば、ここを訪れた理由を言ってなかったですねえ。実は、諸事情で尋ねたい方がおりまして。名前は——」

 しかし、その先が彼の口から告げられる前に——カッカッカッ、と急いた足音が、コメの背後で鳴り響く。
 この靴音は……間違いない。
 だが——何故ここに?
 コメが訝しみながら振り返ると、そこにはエリム教会の司祭であるテマリが——どうしてか全力で走ってきたようで——荒い息を吐き、肩を上下させて立っていた。彼は勢いもそのまま、脇目も振らず、セトシオに駆け寄る。

「セトシオ⁉︎ 帰ってきてたの⁉︎ 二階にいたら、窓から見かけて、びっくりして……!」

 途切れ途切れに息を吐き出すテマリに対し、セトシオは軽やかな雰囲気すら崩さない。

「テマリくーん、ひさびさー」

 彼ら二人のちぐはぐなやり取りを目の前にして、コメはふと思い出した。
 セトシオ——その名は、この教会に届く手紙の差出人として、見たことがある。季節が変わる度に、教会の郵便受けに届き、テマリに渡していた便り。その正体が、どうやらこの男らしい。

「ああ、先にこう言った方がよかったかもしれませんねえ。僕はテマリくんの幼馴染みでして……」

 途端——彼はコメとも最初から馴染みの顔だったかのように、さらりと口調と変えて言い放った。

「うーん。というわけで、せっかく久々に会ったし、テマリくん少し借りてくわー」

 ただの青年としての顔を急に覗かせたセトシオは、テマリの腕を掴んで外に引き摺っていく。
 テマリはされるがまま、ただ嬉しそうにはにかんでいた。

「コメくん、ごめんね〜」
「あ……はい、司祭、お気をつけてー……」

 コメが呆気に取られながら送り出すと、何故かテマリではなく——セトシオが振り返る。
 線の細い青年は、薄雲が作る日陰の下に立っている。色の薄い茶髪を靡かせて、何処か脆さを感じさせる笑みを浮かべた。
 それは、裏から突き立てられる刃物には弱い、カンバスのような脆さ。

「そこのお二人さーん?」

 遠くから呼び掛けられたコメとゴトーは、揃って小首を傾げる。
 セトシオは、そうその二人だ、と頷いて、彼らの鼓膜に染み込ませるように、底抜けに明るい声を届かせた。

「これからも、遊びに来るからさあ。よろしくお願いしますわー」

 そして教会に取り残された二人は、まさしく嵐のように去る彼らの背を見送る
 空を覆っていた雲はすぐに流れて往き、乾いた地面には太陽の光が照り返り始めた。
 結局——紳士は教会に一歩も入ることなく、出て行ったこととなる。

「なんかぁ……拍子抜けでしたね」

 ゴトーのぼうっとした響きに、コメは頷いた。

「ビビり損だったね……。いや……正直、だいぶ胡散臭かったけど、テマリさんの知り合いなら大丈夫だろうし」

 コメは先程まで早鐘を打っていた心臓を鎮めながら、辺りを見渡した。
 ついさっき掃かれた大理石の床。丁寧に拭かれた信者席。そして、少し煤けたステンドグラス。そうだ——現状は何も変わっていない。
 数分前に巡っていた思考がようやっと戻ってきた感覚に、コメは息を深く吐いた。

「そうだったわ。これからステンドグラス拭こうと思ってたんだけど、手伝ってもらって大丈夫?」
「あ、いいですよ。梯子とか持ってきます?」
「んー、いや。とりあえずオレがこっちに運んでくるかな。それから手伝ってもらいたいから、今は休憩してて」

 コメが指示を伝えると、ゴトーはすぐに引き下がった。

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね〜」
「うん、よろしくねー」

 話が早い。その心地良さに笑みつつ、コメは真ん中の通路を突っ切り、奥の扉から礼拝堂を後にした。
 荘厳な広間から一転。
 教会の深部へ到るための廊下は、木の温かみを強調して造られている。ブラウンの暗い色合いが心を落ち着かせることを願って、設計したのだろうか。
 さて、掃除に必要な物が纏められているのは物置だ。
 コメは勝手知ったる道を進み、寂れた一室を目指した。
 だが——足を進めるうちに、コメは気づく。
 いつからか。周囲の景色が微塵も変わっていないことに。
 いや——違う。そうではない。
 瞳だけをじりじりと下に動かすと、何故か、自分の足がガクガクと震えている。
 もし、もしかすると、周りが動かないのは……自分が一歩も動かなくなったからではないのか?
 そう正しく世界を認識してしまった瞬間——コメの足はもつれて、呆気なく床に崩れ落ちた。

「……は、……ァ?」

 身体は言うことを聞かずに、そのまま倒れ伏す。
 硬い木目にぴたりと触れた左頬には、床下から這い上がる冷涼な気が伝わっていた。
 どうして自分がこうなったのか。理解が出来ない。記憶が無い。なぜ自分がここまで、恐怖に怯えているのか。思い当たる節が無い。なぜなら対象が無い。
 いや——本当に?
 回る思考の最後にやがて浮かび上がる、一つの違和感。
 ある紳士の姿を追想し——コメは喉の奥から掠れた悲鳴を上げた。
 そうだ。
 何故、アレに、オレは今まで気づかなかったのか。
 アレが放っていた耐えがたいまでの死臭に。
 そう、アレは、真実、あの子が語ってくれた夢の話にとても近い姿をしていた。コールタールとは言い得て妙だ。
 アレは人間ではない。不定形を人型に押し込み、装うからこその、決定的なまでの奇形を内包していた。
 そこで——一つの疑問が湧き上がる。
 何故、オレは、アレの前で平然と振る舞えていたのか。
 ……それだけは明白だ。自ら鈍感になるように仕向けていたからに決まっている。
 忘れていた。消していたんだ。
 わざと自分がそうなるように。己の出自、その全てすら。
 ああ……やっと思い出した。
 オレは、人間ではない。
 教会内部の監視を命じられるうちに、いつからか——他人の目が在る時は己を人間だと信じ込むようになった——『天使』だった。
 瞬きを等間隔に繰り返して、顔を無表情に形作る。
 コメはようやく自我を取り戻し、思考を巡らせた。
 唇を固く閉じて、呼吸を二度。
 そうして本来であれば数分前に至っていたはずの結論に遅れて辿り着き、奥歯を軋ませた。
 なるほど——この役目は自分にしか出来ないだろう。
 ただの天使がアレを一瞬でも目にすれば、動揺しているうちに彼の歯牙にかかる。
 だからこそ、自分を人間だと思い込んだ末に、天使としての感覚すら切り離せるようになった己は、尖兵として都合が良かったという訳だ。
 それにしても、一つだけ気になる点があるとすれば——あの大天使はこの戦場に投げ込むような仕打ちを、己への信頼の元にやったのか。それともただの駒としての仕打ちか。
 結局のところ、追求に意味はない。彼は己のやるべきことやりたいことをしたまでだろう。次に会った時、文句を言うも言わぬも、どちらでもいいことではある。彼が上に立っておらずともこの状況に己が駒として置かれるのは必然だった、そんな気さえしていたからだ。
 コメは、手に腕に肩に力を順に込めて起き上がった。顔は廊下の先を見据えながらも、眉をきつく寄せる。八つ当たりと分かっていながら、上司への悪態を絞り出した。

「……何してくれてるんですか、あの人」

 そうして冷静になってしまった頭は、アレの標的になった者のことを、考える。
 セトシオの幼馴染みであるテマリ。セトシオの夢を幾度も見る——つまり既に目をつけられているはずのゴトー。そして同様に、わざわざ彼に声をかけられた自分。
 ぼこりと世界中の空に穴が空く。誰もが地上に真っ逆さまに墜落して破裂する。逃れ得る者は一人としていない。醜悪に過ぎるイメージが、脳を支配していく。
 これから幕を開ける地獄は、ぽっかりとその口を開けて己を待っているのだろう。
 コメは平然とした顔を繕い始めながら、鉛のように重い臓腑を抱えて立ち上がる。そしてまた、忘却する為の一歩を、ふらりふらりと踏み出した。
 数分後には都合良く何もかも忘れてしまって、ゴトーの前で梯子を携え、あっけらかんと笑っているのだろう。
 だが——今だけは、この最悪に浸らせて欲しかった。

「ここ、最前線じゃないですか」

 こらえきれずに喉の奥から溢れる悲鳴を、低い唸りへと摺り替える。
 それがコメに残された、たった一つの——自由だった。

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